なんてことない日常の記録

駆け出し医。できることを1個ずつ少しずつ増やし中。気ままに書くブログ。趣味話多め。記事長め推敲ほぼ無し。特に誰も得しないブログ。

どうしたら直るだろうか

新しく患者さん持つと数日は息が切れ切れになる晶です。

 

本当に切れ切れになってるわけではないですが、出勤してる時間(昼休み入れて9時間)過集中状態になって2、3日目くらいに体感的にフラフラしてきます。

 

脳への打撃が半端ないです。

 

悔しくて泣くとかそういうのはないんですが、いくら勉強してもわからないことなんか山程あって指導医に聞きに行くのですが自分の脳が悲鳴をあげてる時に「いや、うーん。そうじゃないんだよ」って言われると『これ以上無理なのに』ってなるぽくて涙が出そうになる。

 

勿論そんなことで泣きたくないので舌を噛んで我慢して、メモ続行するのですが多分泣きそうになってるのバレてるよなぁ。すぐ泣かれる面倒なやつとか思われたくないし、指導されなくなったらどうしようとかすごく思ってる。一瞬でも気を抜くと出そうになるので本当にどうにかしたい。

 

別に怒りとか悲しいとかそういうのじゃない。指導もありがたいし、間違ってて悔しいとかそういうのでもない。先生達もそんなきつくない。

 

ただ多分本当に単純に疲れて精一杯勉強したあとに「そうじゃないんだね」って言われると『もう無理』ってなるみたいで涙が出そうになる。

 

でも正直そこで泣いたら私がどう思ってようが関係なく、指導医は指導しにくくなるし、私も気にされてちゃんと指導されなくなるのが怖い。

私の勤めてる病院は「スタッフ皆で研修医を育てよう」って気持ちがあるらしく、指導を嫌がることはないと研修担当の事務さんにもなんなら研修医会議の時にも先生達から言われた。

嫌味とかそういうのもない(一部除くw)。すごくいい職場。

だからこそ申し訳ないし、呆れられるのが怖い。

 

でも体の反応ってのは自分でなかなか制御できない。難しい。

 

認知行動療法をしてたときのことを思い出してみよう。

ストレスに対しての反応は『認知(思考)』『体の反応』『感情』『行動』の4つから相互に成っていて、そのうちの『感情』と『体の反応』は制御できない部分。『認知』と『行動』は変えることができて、この2つを変えることで『感情』と『体の反応』も少しずつ変えることができる。

ストレスに対して対処法(コーピング)を沢山作っておく。これが基本。

 

今回私の場合、背景として疲労感が強いというのがある。その状況で指導を受けると、ストレス反応として『涙が出る』という『体の反応』が起きる。その時起こるのが『もう疲れた無理。こんなにやってるのに駄目なのか。指導医の話を聞きたい。泣きたくないのに』という『認知』。感情自体はあまりなくて、『行動』は『うなずいて話を聞く、メモを取る、泣きたくないから舌を噛む』。多分瞬間的に出てくる『認知』の部分が引き金になってるのは明白。ここをどう今後変えていくかがポイントにもなりそう。

 

元々ストレスへの対処が苦手だからもう一度ちゃんと考えておかないとだめだなぁと最近思う。

 

 

泣いてしまうと呆れられるのが怖いっていうのは「見捨てられる感」があるから怖いのだけど、しかしなんでこんなに「見捨てられること」に対して恐怖感があるのか考えたけど、思い当たることが1個しかない。

 

多浪中に親と色々あったのですが、30年間もっていたわだかまりみたいなものを生まれて初めてぶつけたんですよね。ある意味初めて反抗期みたいになった。その結果やっぱり親子関係結構変な感じになっちゃって1、2年くらい辛い気持ちだった。その時思ったのは「やっぱり思ってることを言うんじゃなかった」「私だけ我慢してれば良かったのに」と。まあ我慢していてストレスが膨れ上がっていたので実際我慢できなくなっていたのだけど。

 

その頃に親が言ってたのが「親は子供が思ってる以上に子供が辛いときは何倍も辛くなっている。嬉しいときは何倍も嬉しい」「だからこそ嫌でも期待してしまうもの」と。私自身も「期待されたい」のか「期待してほしくない」のかわからなかった時期があった。親的には「黒か白か」を決めたかったみたい。「グレー」という答えはなかった。最終的に親は「私に期待しない」を選んだ。

 

「期待しない」とはっきり言われてから、なんだか余計に虚無感みたいなのに襲われてた時期があって、「やっぱり私は生まれてくるべきでなかった」とか「自分に価値がない」とか1年くらいそういう時期があって可能であるなら「消えたい」とずっと思ってた。死ぬ勇気ないからね。消えて、周囲の人の記憶からも消えたかった。存在してなかったものとして消えたいとずっと思ってたけど、そんなこと絶対に無理なので諦めてた。

 

多分このときに「期待をされないこと」=「自分に生きている価値がない」と思ってしまって、だからこそ「呆れられる」=「期待されない」ということがすごく怖い。

勿論皆が皆そんなわけ無いと頭では思っていてもどうしてもその時のことが頭の片隅で思い出されてしまう。

 

だからこそ頑張らなきゃと思ったりもするけど、やっぱり限界はあるんだよな。

 

親との関係は少しずつ言いたいこととか言うようにして最後は修復できたけど、基本的に「自分の意見を言うことで周りに何かを思われる」ってことがすごく苦手。広く必要な意見を求められる社交的な場でなら言えるけどそうでないときは難しい。

 

家庭環境的にも例えば親と対立しそうな意見とか言うのが難しかったから未だに「ワガママ」や「やりたいこと」「自分の気持ち」を素直に伝えるのが苦手。特に真面目な部分に関してのところは。

多分今それが自然とできてるのは婚約者だけか。

 

「ワガママ」「自分の意見」「自分の気持ち」を伝えると怒られる、嫌われる、見捨てられるという気持ちが強くて、だからこそ仕事でもはっきりいうのがすごく難しい。言ってるけど全てにおいて自信がない。合っていても自信がない。

 

指導医に「こういう理由でこうしようと思ってる」と毎日話しに行くけど、いつも緊張して自信がなくて「自分の意見」を言って呆れられるのではないかという恐怖と戦ってる。

 

まさかの家庭環境が仕事場でこんなふうに壁になるなんて思ってなかったw

 

とにかく見捨てられるのが凄く怖い。

だからもう無理って思うところまで勉強して聞きに行くけど、それでも怖い。

 

そんな緊張下でふと優しい言葉を投げかけられると、それでも思わず泣きそうになることもある。

 

仕事がなかったから外来見学をしたいなと思って指導医に聞きに行ったことがあって、正直そういう意見を言うのも凄く緊張するんだけど「救急車くるかもだからそっちいったらどうかな」と言われて「やっぱりだめだったかな。外来は色々あるもんな。やっぱり迷惑になるよな」と思ったことがあった。(その日、救急車もいつ来るかわからない状況だった。来るまで見学させてもらおうと思っていたがそれは伝えられなかった)

 

でも後から研修担当の事務さん越しに「ああやって外来に直接きて聞きに来てくれるのは嬉しい」らしいと知らされてホッとしたと同時に涙が出そうになった。日々そんなことで?と思うようなことで泣いてしまいそうになる。

 

「人として強くなる」って本当に難しいと思うこの頃。人には色々な背景や人生があって、色々な特性がある。一概に「こうしたら強くなる」なんてものはないだろうし、それをしたらマイナスに働くこともあると思う。ストレスとの関わりが下手だからだからこそ少しずつ見つけていかなきゃと思うけど具体的にどうしたらええんやろなとは思う。

 

 

臨床研修始まって、本やネットではわからないことも沢山あって、これが臨床なんだなと思う。

勉強は大変だけど国家試験のときのプレッシャーに比べたら全然気持ち上は楽。

臨床の勉強をしてる実感も嫌ではない。

指導されたり注意されることはあまりに理不尽でなければ嫌じゃない。

緊張はするけど1つずつ本当に少しずつ身についてくる知識とか技術とか、私にとってはどんなに小さなことでも大切なものになっていってる。

一方で「こんなスピードの進捗で大丈夫か」とか思うこともあるけど。

 

研修そのものは充実しすぎてるけどいかんせんストレスとの向き合い方が下手くそ。

どうしたらもっと普通になれるんだろう。